碧にほどける:7
休日になると、私はよく一人でドライブに出かけている。決まった目的地は無く、気まぐれに車を走らせるだけだ。海沿いや山道を抜けて、知らない町や道の駅で食事をしたりお土産を選んだり。時々自販機の缶コーヒーを飲みながら、運転そのものを楽しむ。そんな自由な時間を味わうことが好きだった。気になる場所が見つかった時は、友人たちを誘ってみたこともある。残念なことに、友人たちは車にあまり興味がなかった。用事がある時以外は、一緒に車で出かけることはない。休日に出かける時は、基本的に一人でドライブをするのが当たり前だった。
一人で行くことに苦痛はないのか、と問われればそれはない。むしろ気は楽だった。とはいえ、ふと見惚れるほどの景色を目にした瞬間、それを眺めるのが一人と一台だけでは、勿体無いなと思ってしまう。自分の目で見て、体験して分かることがあるように、車でしかいけない場所があり、車でしか見れない景色がある。それを共有できる人が居ないというのは、存外寂しいものだった。
もし、数年前であれば――あるいは。
その静けさを感じて以来、気まぐれにドライブすることが少なくなった。以前に行ったことがある場所か、父が遺した雑誌の場所に向かうことが多くなった。未知への開拓心を背負わない代わりに、雑誌に落書きされた場所に向かう。その度に少しだけ寂しさは解れ、壮麗な風景に息を飲み込んだあと、虚しさや悲しさに包まれる。それでも、行ってよかったと思えていた。様々な風景に出会えるのだから。
そうしてドライブに出かけていたある日々の中で、出発の時によく気にかかる視線を感じることが何度もあった――それは、ファイノンがまだ留学したばかりの頃だ。玄関先で靴を履いていると、リビングから顔を出したファイノンが、こちらを伺うように声をかけてきた。
「君はよく週末に出かけてるけど、いつもどこへ行っているんだい?」
「雑誌見て決めたり、気まぐれに走るだけ。運転を楽しむのがメインかな」
「へぇ……あ、いや。引き止めてごめんね。気をつけて行ってらっしゃい」
そして、帰宅した時も同じだった。その日は帰宅が夜遅かった。そっと玄関を開けると、廊下の先の扉から暖かな光がガラス越しに滲んでいた。消し忘れかと思いながら、リビングへとはいるとシーリングライトの暖かな光の下でソファに座っているファイノンの姿があった。まだ起きていたらしい。思わず立ち止まった私に、振り返った彼が何気ない口調で問いかけてきた。
「おかえり。今日はどこへ行ってきたの?」
夜遅いとはいえ、すでに彼は就寝しているものだと思っていた。それだけに、胸の奥で小さな罪悪感がふっと湧く。「帰りが遅くなる」と連絡アプリで一言伝えたあと、そこから先、すっかり運転に没頭してしまっていた。まさか、彼が食事まで用意してくれているとは思わなかったからだ。
比較的ドライブから帰宅する時間は夕方遅くまで間に合うことが多く、お互いに予定があえば一緒に食事をとるのが当たり前になっていた。その習慣があったことを思い出し、彼の気遣いの深さがなおさら胸に染みた。
カバンを空いたソファへ置き、彼の問いに少し間をおいて答える。
「山の方だよ。目的地の帰りに寄り道をして、偶然見つけたカフェに寄ってた」
「カフェかあ! いいね。どんなところだった?」
「雰囲気は結構良くて、多分きみも好きそうな感じかな。ほら、こういう感じ」
注文したのはケーキセットだ。ふわふわのシフォンケーキの上には、甘さを控えた生クリームと、その店で採れた新鮮なベリー類が添えられていた。ケーキや生クリームの軽い甘みがほどよく、ベリー類の酸味でマイルドな味わいで、口当たりは驚くほど優しかった。セットでついた珈琲はオリジナルブレンドとのことで、苦味が少なく、さらりと喉を通るものだった。写真を指しながらその感想を伝えていると、ファイノンはそのまま話を聞きながら自分のスマートフォンを取り出し、店の場所を検索し始めた。その姿を後ろから眺めていると、画面を見ていた彼は思わずといったように「こんな場所にあるんだ……」と小さく呟いた。
確かに、そのカフェは分かりやすい大通りから外れた位置にある。通り道の看板を偶然目にしたため立ち寄れたが、目的地として選ばれることは多くないかもしれない。
人知れず存在し、訪れる人間を少しだけ選ぶ場所かもしれないが、その静けさを好んで通う人はきっといるだろう。
「そうだね。でも、思った以上にお客さんは居たよ。きっと地元には人気のお店なのかもね。まあ、代わりに帰り道は大変だったけど」
「……そっか、お疲れさま」
「ありがとう。夜遅くまで悪いね。ご飯まで用意してくれて……今度からは、もっと早めに連絡するね」
「別にいいよ。僕が好んでやったことだ」
笑みを浮かべたファイノンの表情は、どこか照れたようで純粋な善意に満ちているように見えた。遠慮も打算も無く、ただ相手の疲れを労うためだけに行動できる――彼は、そういう人なのだ。そうして笑う彼の目元にゆるく落ちる髪の影が揺れて、シーリングライトの光がそれをそっと照らした。
「――そうだ、冷蔵庫にデザートもあるんだ。ナナシさんが好きそうだと思って。また好きな時に食べてよ」
「ありがとう。流石というか。きみ、この家に来てからサラダ以外でなんでも作れるようになってない?」
「そうかな。料理本とかネットでレシピを眺めるのが面白くて、やってみただけさ。味を気に入ってくれるかはわからないけど」
「そんなことない。きみが作るご飯は、いつも美味しいよ」
「そう言ってもらえるなんて、嬉しいな。僕も食事の時のナナシさんからドライブの話を聞くのが、いつも楽しみだから……」
「――私の?」
「僕は明日も早いから、先に寝るね。おやすみなさい」
一緒に行きたいのだろうか――ふと、そんな思いが浮かぶ。だが、確信は持てなかった。まだ彼とは数日間の日々しか過ごしていないのだ。彼なりの遠慮なのか、距離を測っているのか。それとも、私が気づいていないだけで別の思惑があるのか。少し胸に引っかかるものを抱えながら、それ以上は踏み込まないままでいた。