碧にほどける:6

 次に辿り着いたのは、彼のクラスとは別の校舎――上級生たちが出し物を行っている場所だった。そこでは『魔法国家の王宮風レストラン』というコンセプトのもと、豪奢な衣装に身を包んだ生徒たちが給仕をしていた。ファイノンのクラスの演出も中々だったが、こちらも負けず劣らずの凝りようで、入り口からしてどこか異国の城を思わせる雰囲気が漂っている。
 入場はスムーズだった。まるで客全員を貴族として迎える生徒にやや気圧されつつも、なんとか注文を済ませる。「ふぅ」と安堵の息がもれると、それを見ていたファイノンがくすりと笑った。彼はどこか余裕のある表情で、まるで最初から舞台の一部であるかのような馴染み方をしていた。

「きみ、なんだか楽しんでない?」
「いや? ……でも、僕も昨日来た時、似たような顔してたなあって」
「え、もう体験してたの?」
「うん、前日にクラスメイトに誘われてね。僕のクラスもかなり凝ってるけど、こっちの本気度もすごくて、いい刺激になるなって思ったんだ」
「……確かに、本気度合いは拮抗してるかも」
「それに、コンセプトが攻めてて圧倒されるよね。来年は飲食の出し物もできるから、こういうのに挑戦してみたいなあ」

 そう言いながら、ファイノンは「例えば」と前置きして、少し悪戯っぽく笑う。

「そうだな、メイドレストランとかメイド喫茶とか、どうかな?」
「メイドしかいないじゃない。漫画の読みすぎだよ」
「あははっ。実はね、実家の近所にいた幼馴染の女の子が、漫画を貸してくれたんだ。メイドで生徒会長やってる話とか。面白くって、結構読み込んでた覚えがあるよ」

 ファイノンが読んでいたというその漫画に、心当たりがあった。あまりにも有名な少女漫画だ。幼なじみの女の子から漫画を借りていたという、想像の中の彼の幼少期は微笑ましく感じる。
 同時に、どこか納得もしていた。彼のときどき見せる、あの不思議な距離の近さに下心のようなものを一切感じないのは、おそらく――その幼なじみの存在が、そういう形で彼の人間性を育ててくれたからなのだろう。

「……そんな提案をクラスにしたら、きみが女装する羽目になりそうだけど」
「ええ? まさかあ。あれは女の子が着るから可愛いのであって、僕みたいなガタイが良い男が着ても嬉しくないって」
「いやいや、私の友人が曰く――そのジャンルには、一定層の熱烈な支持があるらしいよ。甘く見てはいけない」

 そんな会話をしているうちに、クラシックなメイド服に身を包んだ女子生徒達が、足音も静かに近づいてきた。銀のトレイを抱えた彼女達は、白いテーブルマットの前に一品ずつ料理を並べていく。その所作は隅々まで行き届いており、まるで中世の物語から抜け出してきたような品格があった。
 全ての料理が揃ったところで、彼女は一礼し、落ち着いた声で告げる。

「お待たせいたしました。侯爵様、侯爵夫人。星詠みの賢者が祝福を注いだ晩餐をお持ちいたしました」

 ゆっくりと銀の蓋が持ち上げられ、まるで舞台の一幕のように視覚が演出される。その下から現れたのは、紫のソースがかけられた肉料理、透き通るような青いスープ、小ぶりな果実をあしらった彩り鮮やかなパイ。どれも色彩が強く、味の想像がつかない不思議な組み合わせだった。
 思わず瞬きを忘れそうになる。目の前に座るファイノンは声が漏れるほど興味津々といった様子で、目を輝かせながら料理に見入っていた。彼はナイフとフォークに手を伸ばしかけて、ふと私の方を見る。

「食べられそう?」

その一言に、私は料理から目を離し、彼を見た。小さく頷くと、ファイノンはようやくスープの香りを確かめるようにそっと顔を近づけ、丁寧な所作でスプーンを口元へ運んだ。ゆっくりとひと口含むと、「うん、美味しい」と小さく微笑んでみせる。
その様子に少しだけ安心し、私もようやくスプーンに手を伸ばした。
 ごくりと小さく息を飲み、青白く光を反射するスープにそっとスプーンを沈める。香草の香りがふわりと立ち上り、花びらが浮かべられたスープを一口含むと、思いのほか丁寧に仕立てられた優しい味わいが口いっぱいに広がった。見た目に反して、その味はあまりにも普通で――いや、それゆえに、しっかりと記憶に残る一品だった。

「見た目とのギャップ、すごいよね」

 ファイノンが驚く私を見ていたのか、微笑んでいた。彼は続いて肉料理に手を付けていた。
 同じように私もその料理に手を伸ばす。ナイフとフォークを手に取り、赤紫色のソースがかかった肉料理を切り分ける。ナイフが柔らかく通る感触に、少しだけ感心を覚えた。酸味と甘味のバランスが良く、見た目以上に計算された味だ。学生の文化祭とは思えないほどの出来栄えである。
 そして、料理に舌鼓を打っていると、突如教室の灯りがわずかに落ち、窓が黒いカーテンによって閉められる。スポットライトのような光が舞台めいた一角に注がれ、やや高い壇上に立った人物が、芝居がかった声で口を開く。

「この方こそ、王国の第一継承者、テレサ・リュドミラ・ヤヴリンスカヤ様であらせられる!」

 周囲がざわめき、次いで拍手が湧き起こる。舞台のように演出された空間で、どうやら劇の一幕が始まったようだった。クラシックなドレスに身を包んだ女子生徒が、傍らの平民役と見られる男子生徒に手を差し伸べ、毅然とした口調で台詞を告げていく。
 ――これは、いわゆる「悪役令嬢」の逆転劇のようだ。舞踏会の直前に婚約破棄される定番の展開かと思いきや、最後には令嬢が王子ではなく平民の青年を選び、運命に背いて自らの人生を切り拓く、という筋書きらしい。

「……どんなコンセプトのレストランなんだ、これ」

 思わず小さく呟いていた。料理と会話を楽しんでいたはずが、いつの間にか演目が始まり、情報が上書きされていく。拍手する周囲に釣られて手を叩くことすら忘れていた私は、やや引き気味にその一幕を眺めていた。
 けれどファイノンは、違ったようだ。興味津々といった顔で舞台に目を向け、登場人物の台詞に時折笑みを浮かべている。演技のぎこちなささえも楽しんでいる様子だった。
 そんなに面白いのか、と問いかける代わりに、私はスマホをそっと取り出し、夢中になっている彼の横顔を撮った。舞台よりも、彼のその無邪気な横顔のほうが、ずっと劇的だった。
 やがて劇が終わり、店内には再び拍手が広がった。メイド服を着た女子生徒達が各テーブルを回りながら、「このあとはご自由に食事をお楽しみください。お済みになりましたら、順次お出口へどうぞ」と丁寧に案内していく。どうやら大きなイベントは今の劇で一区切りとなったらしい。
 ひとつひとつ驚いていた感覚が次第にぼやけていく。慣れたのではない。ただ、情報量の多さに感覚が追いつかないだけだった。賑やかな空間に身を置いたまま、私はパイの皿を前にそっと小さく息を吐いた。

「大丈夫?」

 食事を終えて出口から廊下に出たとき、ファイノンが心配そうに声をかけてきた。私は眉を下げて、かすかに笑い返す。それ以上は何も言わずに歩き出すと、彼が少し遅れて足音を響かせ、後ろからついてきた。やがて、ふいに立ち止まった気配を感じる。振り返ると、ファイノンは数歩後ろで俯き、何かを言いかけたように唇を噛んでいた。

「……ごめん。僕のわがままに巻き込んじゃったね。途中で思ったんだ、こういうのって、ナナシさんはあんまり得意じゃないのかもって」

 彼の言葉に、私はほんの少しだけ口元を緩めてみせる。

「……違うよ。苦手っていうよりも、ただどう反応すればいいのか、よくわからなくて」
「でも、迷惑をかけたのは僕だ」
「気にしないで。迷惑なんて思ってないから。むしろ、ああいうのも、悪くないと思ってるよ。今日はちょっと、情報量が多すぎただけだよ」

 そう言いながら、彼の肩にそっと手を置いた。俯いていた彼の顔が少しだけ上がり、こちらを窺うように目が合う。私は静かに笑った。言葉よりも、そうする方が今は伝わる気がしたのだ。

「……ありがとう。ナナシさんって、本当に優しいね」
「きみが気を遣いすぎなだけさ」

 私はそれ以上何も言わずに、ただ廊下の方へと振り向いて歩き出す。
 隣に並んだファイノンと共に、先程のレストランについて話をしていると、校内放送が入った。静かに聞いていると、どうやらもうすぐ文化祭の終わる時間帯のようだった。静かに聞いていたファイノンは、校内放送が終わるにつれ残念そうにしていた。まだ回りたい場所があったらしい。

「もう少しナナシさんと一緒に回りたかったな」
「最初はきみのクラスの出し物だけ見て、あとは終わるつもりだったんだけどね」
「それでも、ナナシさんは僕に付き合ってくれた」

 歩きながら、ぽつりとそう呟いたファイノンの横顔は、さっきまでのはしゃいだ様子とは違い、どこか大人びた表情をしていた。西日が差し込む窓際の光が彼の頬を柔らかく照らし、そのまなざしに見とれそうになる。
 彼の言葉に何かを返そうとして、私は口を開きかけ、しかしすぐに閉じる。彼に一緒に文化祭を回ることを誘われたとはいえ、実際は自分も楽しんでいたことを思い出すと、咄嗟にどう受け止めればいいのか分からなかった。ただ、「うん」と小さく頷くことしかできなかった。
  ――本当なら、きみは自分のクラスの友人たちと回るはずだったのに。なぜ、私なんかを誘ったんだろう。
 その疑問が、ふと頭をよぎる。何気なく、そう訊いてみたら、彼はどんな顔をするだろう。笑ってごまかすのか、それとも何か真面目な答えを返してくれるのか。想像が浮かんでは消えていく。

「……まあ、今日は一緒に回れて楽しかったよ。ありがとう」

 私はそう締めくくって、ほんの少しだけ笑った。ファイノンは、少し驚いたように目を瞬かせてから、ふっと口元を緩めた。

「僕も、楽しかった。……きっと、ナナシさんが――」

 言葉の途中で、校内放送が再び流れる。くぐもったスピーカーの音と共に、終了時刻のアナウンスが告げられ、BGMは少し切ない旋律へと変わっていた。

「え? ごめん、聞き取れなかった」
「……いや、なんでもないよ。僕もそろそろ片づけに戻らないと」
「確かに、そうだね。いってらっしゃい」
「いってきます。それと、またドライブで」

 彼はそう言って微笑みながらも、どこか名残惜しそうに笑った。ファイノンの背中を見送ると、ひときわ賑わっていた文化祭の喧騒も、少しずつ遠ざかっていく。そのざわめきと一緒に、さっきまで過ごしていた不思議な時間も、ゆっくりと背中の向こうに離れていくようで、胸の奥にぽつりと小さな隙間が生まれた気がした。
 ――終わっちゃったな、と、ふと思う。
 この学校の生徒ではない私は、あとは一般客として校門から出るだけだ。
 帰路への道を進みながら、先ほど聞き取れなかったファイノンの言葉や、最後の表情が脳裏をよぎる。
 何かが変わったわけではない。でも、確かに何かが残ったような、不思議な感覚があった。隣を歩いた時間は少なくとも、自分の足で彼と共に文化祭を楽しんだ。強制されたような形でも、確かに楽しんでいたのだ。後悔もない。食事の時は、情報の多さに少し頭は疲れてしまったが、それもまた、彼と過ごした時間の一部だと思えていた。
 それを伝えた時、彼は「優しいね」と言ってくれた。そして、一緒に回ったことへの感謝――それとも、それとは違う何かを、あのとき伝えようとしていた気がする。

「……気づかないほうがいいな、きっと」

 答えを得る前に、その思考を止めた。私は人の波に紛れながら、静かに帰路へと歩き出した。
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