碧にほどける:5

 最も日の光が眩しい頃、体調はすっかりと落ち着いていた。用意してもらった軽食も食べ終わり、ぼんやりと窓越しに校舎の景色を眺めていたところだった。
 再び控え室に現れたファイノンは学生服に着替えており、開口一番「行こう」と言って私の手を引いた。すっかり人で溢れかえった文化祭の喧騒へと、まるで散歩にでも行くような調子で連れ出される。
 彼の大きな手が、包み込むように私の手を握っていた。通りかかる廊下にも、先程の彼のクラスにも、混雑の気配は依然として残っている。ファイノンの背中について歩いていると、不思議なほど人波をすり抜けることができた。きっと、彼が前を歩いてくれているからだ。
 人の流れの隙間を通り抜けながら、私はその背を目で追う。ふと視線に気づいたのか、彼が首だけを振り向かせた。横顔には、迷いのない明るい笑みが浮かんでいた。

「じゃあ、まずは僕が気になってたクラスに行こうか。冊子で見てから、ずっと気になってたんだ」
「前日の準備の時に見て回らなかったの?」
「そうだね。あまり見て回る時間は無かったかな。代わりに今日だけはちゃんと時間を取りたくて――」

 そう言いかけたところで、ファイノンが「あっ」と短く声を上げた。どこか照れたように、自由な片手でうなじをかく。

「……えっと、ほら! 早速見えてきたよ」

 彼が指し示した先には、どこか懐かしさを漂わせるのぼり旗が並んでいた。和風の装飾が施された賑やかな空間は、まるで昔ながらの駄菓子屋を彷彿とさせる。年配の一般客たちが懐かしそうにその場を眺めており、ときおり軽やかな音が響くのは、どうやら射的の発砲音らしかった。
 少し早足だったファイノンの歩みが自然と緩やかになり、私たちはそのクラスの出し物の列の最後尾に並んだ。ふと、繋がれていた手がそっと離された。彼の方を見上げると「楽しみだね」と目を輝かせながら、目の前の出し物に夢中になっていた。
 まるで子供のような無邪気な表情に、不思議と胸が温かくなる。同時に、幼い頃の自分を思い出した。あの頃のように祭りも誰かの隣で笑い合ったことも、今は少なくなっていた。その眩しさに目を細めて――文化祭に来た理由を思い出した。彼の青春の一ページを担う光景を残すことを頼まれていたのだと、冷静になる。
 カバンの中からスマートフォンを取り出して、彼の横顔を一枚、シャッターに収めた。シャッター音に気づいたのか、ファイノンがこちらを振り返って首をかしげる。私はそれを誤魔化すように、目の前の出し物を指差した。
 やがて順番が回ってくる。教室の中には、輪投げ、射的、ヨーヨー釣りといった昔懐かしい出し物が、ひと部屋にぎゅうぎゅうと詰め込まれていた。まるでここだけが時空から切り離されて、ひと足遅く夏まつりがやって来たかのようだ。
 それぞれの屋台風の場所には、生徒たちの手で丁寧に作られた装飾が施されていて、パンフレットで見たイラストとよく似た、可愛らしい看板やポスターが目を引いた。

「せっかくだし、僕は射的やってみようかな。景品、ナナシさんはどれがいい?」

 楽しそうにチケットを受け取ったファイノンが、こちらを見上げるように訊ねてきた。射的の台を見れば、缶ジュースやぬいぐるみ、手作りらしきキーホルダーやブレスレット、駄菓子などが並べられている。景品はどれも高価なものではない。ファイノンはそれらひとつひとつを面白そうに眺めていた。

「驚いた。ファイノン、射的やったことがあるの?」
「うん。昔、一度だけね。……その時は、外しちゃったけど、今回は外さない自信があるんだ」

 どこか得意げに語るその口調に、思わず口元が緩みそうになる。真っ直ぐ前を見据えている彼の背に、こちらからは表情は見えない。けれど、その肩の張り方や、ほんのわずかに跳ねた髪の揺れまでもが、満足そうに見えていた。私は彼の一歩後ろに立ち、その背中に視線を預けながら、静かに呼吸を整えた。
 射的場を仕切る生徒が専用のコルク銃を彼に差し出す。ファイノンはそれを受け取ると、重みを確かめるように小さく手首を傾け、まるで訓練でも受けたかのような自然な動作で銃口を掲げた。人差し指が引き金にかかり、反対の手が弾を装填する一連の流れに、無駄な動きはひとつもない。
 最初の一発目、標的の缶が派手な音を立てて倒れる。その瞬間、周囲の空気が少しざわめいた。続けざまの二発目、今度はぬいぐるみの下にある小さなパネル――これはアクセサリーを当てるためのものだ――を見事に弾き飛ばした。驚きよりも先に、思わず声が漏れた。
 ファイノンはちらりとこちらを振り返り、勝ち誇ったように口元をゆるめた。彼は銃を構え直し、最後の一発を装填した。指先の動きにはもう迷いがなく、軽く銃を傾けて視線を定める。奥に並ぶぬいぐるみに狙いを定めた。静かな空気の中、彼の肩が小さく動く。放たれたコルク弾はまっすぐに飛び、ぬいぐるみの台座をかすめるようにして横へ逸れた。ほんのわずかの差だった。わずかな間が空く。ファイノンはそのまま銃口を下げ、視線だけでぬいぐるみを見つめていた。表情には悔しさというより、どこか清々しさがあった。そして、肩をすくめて振り返ると、照れくさそうに笑った。

「うーん、あと一発あればなあ」

 そんなことをぼやきながら、彼は景品の棚を担当する生徒に告げて、当てた分の景品を受け取った。
 こちらに戻ってくると、小さなアクセサリーを差し出してくる。

「これ、車のキーホルダーにでもつけられそうじゃない? ほら、車がモチーフっぽいし、ナナシさん好きそうだと思って」
「えっ……あ、ありがとう」

 思いがけない言葉に、手を差し出すのがほんの少し遅れてしまう。彼の手から受け取ったアクセサリーは確かに車の形をしていて、愛車によく似た色とフォルムだった。どこかレトロで柔らかな質感があり、見れば見る程愛嬌が感じるデザインだった。

「次はどうする? 今度はナナシさんが選びなよ」
「そうだな――輪投げでもしようかな。こういうの、子供の頃は好きだったし」

 そう返すと、ファイノンが「いいね」と嬉しそうに笑った。
 輪投げの台には、手作り感にあふれていて、色とりどりの的やぬいぐるみが並べられている。それぞれに名札や点数が書かれており、中には明らかに難易度が高そうな距離の的も混ざっている。子供の頃に遊んだ記憶を手繰るように輪を構え、勢いをつけて投げる。すると、輪は高得点の札を掲げた的に吸い寄せられるようにして命中した。

「わっ……やった……?」

 我ながら意外な命中率に目を見張る。
 輪が引っかかった的がぐらぐら揺れたのを見て、隣で見ていたファイノンが「おお!」と声をあげた。

「すごいじゃないか! 勘が冴えてるね」
「偶然……と言いたいところだけど、私も驚いてるよ」
「今日は運が良いのかもしれないね。僕もナナシさんも」

 そう言って微笑むファイノンの表情は、まるで自分のことのように嬉しそうだった。
 その後、残っていた回数分の輪投げを終えるものの、高得点を採れたのは最初の一投だけだった。軽く肩をすくめて笑うと、隣のファイノンは「でも最初に一発で決めたのがすごかったよ」と労ってくれる。その言葉に苦笑しながら受付へと向かうと、合計点に応じて景品が選べるらしく、スタッフに促されて並んだ棚の前に立つ。
 目の前に並ぶのは、射的場で見たものとよく似たラインナップだった。どれも生徒たちが手間をかけて選んだのだろう。大量生産の既製品とはまた違った、どこかあたたかみのある品々だった。
 見渡せば、ファイノンも隣で棚を覗き込んでいた。真剣な面持ちで物色している様子がどこか面白い。自分の分を選ばなければならないはずなのに、いざとなると何が良いのか分からない。視線だけが棚の上をさまよい、指先も宙を泳いだまま、決め手に欠けていた。そのまましばらく悩み、結局決めきれずに、私は彼に声をかけることにした。

「ねえ、ファイノン。さっきのお返しとして、何か一つ選んでくれない?」
「え、いいのかい? 僕のは、ほとんど押し付けみたいなものだったのに」
「あれはあれで気に入ったから。それに、景品どれにしようか迷っちゃって、自分じゃ選べなくて」
「……なるほど。じゃあ、僕はこれにしようかな」

 彼は不思議そうにこちらを見てから、すぐに柔らかく笑った。少しだけ視線を棚へ戻し、真面目な顔でいくつかの小物を見比べはじめる。目の動きだけが忙しなく揺れ、指先がほんの数秒、ある一点で止まった。
 彼がそう言って手に取ったのは、先ほど射的場で彼自身が当ててくれたのと同じ形の車型キーホルダーだった。ただ、先程の色違いのものだった。貰ったものは白や銀に近い色合いだったが、今度は落ち着いた紺色をしている。私が自然と首を傾げると、彼は悪戯を企む子供のように唇を引き上げた。

「うん。ドライブに行くまでの、おまじないってことで」
「おまじない?」
「そう。僕、ドライブの虜になっちゃったからさ。でも運転はできないし、ナナシさんに乗せてもらうまでの乗れない時間って、なんだか妙に長く感じるんだよね。だからこれで、少しでも補えたらなって」
「そ、そんなに好きになったんだ? 嬉しいけども……」

 そんな会話をした後、まだ回っていない出し物をいくつか覗いてみることにした。
 輪投げやヨーヨー釣りの他にも、おはじきやコマ回しなど、どこか懐かしい遊び道具が並んでいた。派手さはないが、丁寧に作られた小道具の数々が、彩り豊かに机の上を飾っている。それぞれの台で、順番に小さな挑戦を繰り返していく。勝負事に熱が入りやすいファイノンは、引き分けが続くたびに「今度こそ!」と連戦を仕掛けてくる。だが、昔こうした遊びを一通り経験してきた身としては、負けるわけにはいかなかった。正々堂々と彼と競り合っているうちに、ふと見れば、ファイノンはどこか少年のような顔で笑っていた。
 最後にヨーヨー釣りの輪の前で立ち止まり、小さな水面を見つめた後、私たちは廊下に出た。すでに校舎の中は少しずつ静かになりはじめていた。賑やかな熱気はまだ残っていたが、行き交う人の数は目に見えて減っている。ファイノンはまだ気になっている所があるらしく、彼のあとをついて歩き出す。だが、最初の時と違って、今は手を繋いではいなかった。代わりに、隣に並んで歩く彼は、その長い脚をあえてゆっくり運び、私の歩幅に合わせてくれていた。
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