碧にほどける:4

 ――文化祭当日。
 彼の通う学校には、これまでも何度か足を運んだことがあった。それはいずれも静かな平日で、生徒たちの声もまばらな落ち着いた空気が流れていた時期だ。こうして、賑やかに盛り上がる文化祭の日に足を踏み入れるのは、初めてのことだった。
 校門から校舎へとかけて、ところどころに文化祭の飾りつけが施されている。カラフルな紙の花のアーチをくぐろうとしたそのとき、パンフレットを持った生徒が近づき、手渡してくれた。
 パンフレットには、手描きのイラストとともに、校内マップや出し物の一覧、ざっくりとしたタイムスケジュールが載っている。手づくり感があるのに見やすくて、必要な情報がすっと頭に入ってきた。
 少し歩いて、飾りつけられた校舎の間をくぐった瞬間、生徒たちの熱気が一気に肌を打ち、耳と目に飛び込んでくる。
 露店から漂う甘い匂いに、模擬店の呼び込みの声。すれ違う生徒たちのクラスTシャツの鮮やかさと、廊下に並ぶ装飾のきらびやかさ。
 かつて経験した文化祭とは全く別物のようで、新鮮すぎる光景に目が眩みそうだった。だが、それすらも高揚感が止まらず熱を帯びたように、純粋に文化祭を楽しみたいと思っていた。

「確かここら辺に……」

 受付を済ませて体育館前を抜け、校舎の中へ再び入る。廊下を進んでいくと、少し奥まった場所に人の列ができているのが見えた。パンフレットの通りであれば、あの先にあるのがファイノンのクラスのはずだ。
 列の脇をすり抜けながら確認していると、隣を通りすぎていく生徒の中に、ホラーチックな衣装を着た子たちが何人もいた。目の前の教室の扉に入って行く姿を見るに、やはり彼のクラスの出し物のようだ。
 もう少し進むと、予想通り『1-Bお化け屋敷』と書かれた不気味な看板がぶら下がっていた。
 出口側の扉の中からは、低いうめき声と、悲鳴のような演技の声が響いてくる。どうやら、ちゃんと演出されているようだ。それに、出口側から出てくる客層を見ていると満足そうな顔をしている人や、体を震わせている人もいた。
 せっかく来たのだから体験せねば、と列に並ぶ。意外と待ち時間は長く、ようやく自分の番が来たころには、緊張よりも期待のほうが勝っていた。
 入り口から出てきた一人の生徒に案内され、手渡されたのは、一本の懐中電灯。それを握って、早速お化け屋敷の中へと足を踏み入れる。

「……本当に、けっこう本格的だな……」

 真っ暗な暗幕の中、薄暗い照明が足元から天井までを怪しく照らしていた。作り込みは想像以上である。雰囲気はまるで、薄明かりの洋館に迷い込んだようだ。
 ハリボテの窓には、写真のような絵が貼られている。曇天の下、並ぶ墓石に空を飛び墓石にとまっているカラスたちの姿が描かれていた。環境音も細かく作り込まれていて、空気感そのものが学校とは異質の世界を演出している。
 とはいえ、あまりにリアルな仕掛けもいくつかあり、思わず息を呑む瞬間があった。特に、今にも動き出しそうな人の形をした石像や、黒い外套を着る人の様な怪しい影がある絵画は、そこらじゅうにあって、何度見ても不気味である。
 一本道を進みながら、時折現れる謎解き要素をライトを当てて解き、薄暗い空間で手がかりを探してようやく中盤まで進んだ時だった。
 突然四方八方から足音が響き出した。一瞬にして背筋が凍る。
 警戒しながら後ろを振り返ろうとしたその瞬間、ふいに背中に何かが触れた。

「うわっ!?」

 入り口で案内された生徒から「危ないので走らないでください」と言われていたのだが、この状況下では走らない選択肢が頭に思い浮かばない。
 逃げるようにして目の前の扉へ駆け寄る。だが、いくらドアノブを動かそうにも微動だにしない。ドアノブは壊れていたのだ。ガチャガチャと音を立てて回すが、ノブは空回りするばかりで、後ろから迫ってくる足音に、思考がまとまらず視界が涙で歪んでいく。
 ふいに静寂が訪れる。
 振り返る勇気もなく、ただ息を飲み込んだ。
 真後ろに、誰かがいる。

「――を……寄越せ……」
「ひぃっ!?」

 静寂は恐怖を助長させる。掠れた低い声と恐怖心で腰が抜けてしまい、地面へとへたり込む。両耳を押さえて蹲った。視界すら開けることが億劫だ。
 背後にいた気配の人物が驚いている様子が一瞬聞こえた。軽く肩を叩かれたり声をかけられた気もするが、両耳を塞いで内心鼓動を鎮めるために集中していたためか、全く反応ができなかった。
 すると、両耳を塞いでいた手を強引に引っ張られ、後ろから「ナナシさん!」と聞き覚えのある声が聞こえてきた。その声にやっと集中が途切れ、意識を現実にゆっくりと戻す。

「ファイノン……?」
「大丈夫? ごめんね、少し調子に乗って驚かせすぎちゃった……ナナシさん、立てる?」

 そう言って手を差し伸べてきたのは、黒いフードを目深に被ったファイノンだった。顔を覗かせる肌は普段よりも白く、まるで薪のように細かくひび割れた模様が刻まれている。恐らく、演出用の化粧によるものだろう。
 冷静な思考の裏で、胸の内ではまだ動揺が尾を引いている。彼の手を握り、ゆっくりと立ち上がろうとするが、思いのほか腰が抜けてしまっていて、体がうまくついてこない。踏ん張る力も抜け落ちていて、情けなさが喉の奥からこみ上げる。口の端が引きつったように笑った。
 ファイノンはそんな様子にも動じず、ぐらつく身体を支えるように腕を添え、重心をかけやすいようにわずかに自身の足を引いた。歩幅を合わせるようにして、出口まで静かに導いていく。教室の外へ出ると、彼はすぐに近くの案内係の生徒に何かを伝え、それから私の方へと戻ってきた。
 廊下に出た瞬間、校舎内の明るい照明が目に飛び込んできて、一瞬だけ視界が白く滲む。ふらりとよろけた体を、ファイノンは迷うことなく引き寄せた。肩に添えられた手が、体の重さを自然と支える。
 まるで二人三脚のように、ゆっくりと歩幅を揃えながら、彼の案内する方向へと歩き出した。

「ここなら、しばらく落ち着けるよ」

 控え室と書かれた札のある部屋は、さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。文化祭の最中とあって、生徒たちはほとんど外に出払っているのだろう。室内にいるのは、ファイノンと私だけだった。
 案内されるまま椅子に腰を下ろす。思った以上に力が抜けていて、背もたれにもたれるようにしてやっと座れた。目の前ではファイノンが心配そうに様子を伺っていたが、もう笑ってごまかす元気も残っていない。

「体調が良くなるまで、ここにいていいからね」
「……ありがとう」
「どういたしまして。僕はちょっと、クラスの子に代わってもらえるか聞いてくるね」

 そう言ってファイノンは控え室を出て行った。ドアが閉まるのを見届けると、ぼんやりと天井を仰ぎ、そのまま部屋の空気に身を預ける。ふと視線を窓に移すと、半開きになったガラス戸の隙間から風が入り込み、髪をそっと撫でていった。頬を過る風は少し冷たくて、じんわりと熱を鎮めていくような感覚だけが残る。
 やがて、足音とともに扉が開いた。戻ってきたファイノンはすでにフードを外しており、片腕に軽食とペットボトルの水を抱えていた。

「戻ったよ。はい、これ。水は飲めそう?」
「うん、大丈夫。ありがとう」

 手渡されたペットボトルのキャップを開け、ゆっくりと水を飲む。冷たい水が喉を下り、胃の底まで染み渡る。さっきまでの動揺は、ようやく遠ざかり始めていた。
 あのときの恐怖を思い出すだけで、また体がひやりと反応しそうだった。肩を竦めるようにして身震いすると、隣でファイノンが椅子に腰かけていたのが目に入る。両肩を軽く回しながら、関節が鳴る小さな音が聞こえた。
 視線を衣装へと移せば、彼が身に着けているのは明らかに既製品とは思えない程、やけに凝っている黒い衣装だった。テーブルに置かれた仮面や、今もつけている手甲や肩当てに至るまで、どれもまるで中背の騎士のような重厚感がある。じろじろと見てしまっていたらしく、ファイノンがこちらに目を向けて首を傾げた。

「ん、何?」
「いや……その衣装、めちゃくちゃ凝ってるなあと思って」
「ああ、これ。キャスさん――クラスメイトの子が、知り合いにオーダーしたらしくてさ。すごいよね。僕も最初に渡されたときは驚いたよ」
「その仮面も被ってたってことだよね……本格的すぎて、文化祭の最優秀賞取れそう」
「ははっ。“本気でやる”がうちのクラスの方針だからね。もちろん、僕も全力でその一部になるつもりさ」

 そう言って立ち上がったファイノンは、仮面を片手にマントを軽く翻し、衣装の全体像を見せてくる。中腰のまま笑っているようにも見えるが、その風貌はまるで目の前に現れた黒衣の騎士だった。
 もし黒い長剣でも手にしていたら、さぞかし似合っていたことだろう。先ほどのお化け屋敷で見せたように、あのまま廊下を歩けば目を引くのは間違いない。ただ、その仮面の下にいるのは、騎士というよりも明るく気のいい好青年なのだが。
 ひとしきり衣装の自慢を終えると、ファイノンは「そうだった」と小さく呟き、手にしていた仮面を外した。銀色の髪と碧い瞳があらわになると、どこか張り詰めていた空気がほぐれたように感じられる。

「忘れてた。これ、軽食も持ってきたんだ。落ち着いたら、食べてね」
「……何から何までありがとう」

 ファイノンはにっこりと笑ってみせた。
 しかし、すぐにどこか少しだけためらうような様子を混ぜる。目線を合わせるように膝を折ってこちらの高さに合わせると、頬をかきながら気まずそうに口を開く。

「あー……あと、そう。ナナシさんって、他にどこか回る予定ある?」
「え? うーん、今のところはないかな。ファイノンのクラスだけ見られたらいいかなって思ってたし」
「本当?――じゃあ、一緒に回ろうよ!」

 言葉が終わるや否や、ファイノンの顔がぱっと明るくなる。駆け寄ってきた彼の姿に、一瞬、犬の耳やしっぽを生やした幻覚が見えた。勢いよく距離を詰めてきた視線に思わずたじろぐが、そのまっすぐなまなざしを逸らすことができなかった。
「それはちょっと」と言葉を返す前に、ファイノンは文化祭で気になる展示や出し物について語り出す。「ここは絶対見た方がいいよ」「あと、あれも面白そうだった」と矢継ぎ早に候補を挙げてくる。その勢いに返答のタイミングをすっかり逃してしまう。結果として、どうにも断る一声が発せないまま、一緒に文化祭に回ることになった。
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