碧にほどける:3
一ヶ月ほどの同居生活は、思った以上ににぎやかなものになった。一人にしては広く感じる2DKの部屋は、突然二人になってキッチンも洗面台も少しだけ順番待ちが増えた。小さな生活音が重なって、部屋の中がいつもよりにぎやかさを感じさせる。それでも、彼は驚くほど気を遣っていて、狭さや窮屈さを覚えることはなかった。
使った場所は必ずきれいに片づけてくれたり、洗濯物を畳むのも率先して手伝ってくれたりする。食事の手配や食後の皿洗いまで、当たり前のように気にかけてくれている。
その几帳面さは、彼本来の生真面目な性格からきているのだろう。晴れやかな容姿の印象とは裏腹で、そのギャップに驚きながらもありがたく感じていた。
時々、リビングのソファーでうたた寝している姿を見かけると、その顔立ちの幼さに、彼がまだ学生なのだと改めて気づかされる。
そんな、ほんのささいなことばかりではあったが、その積み重ねが、彼をただの親戚の息子という存在から、いつの間にか可愛い弟のような存在へと変えていった。
「寮の準備ができたみたいで」
「そっか。アクシデントでこっちに来たとはいえ、君にとってはやっと寮に入れるね」
「いえ! 僕にとっては、ナナシさんとの生活が過ごしやすくて……まるでもう一つの家みたいで。正直、離れがたいというか……」
「あははっ! でも、学校からの指示でしょ? 気を遣わせちゃってごめんね。気持ちだけ、もらっておくよ」
ファイノンは、されるがままだった。撫でる手が止まると、そっと顔を上げる。悲しそうなような、困ったような目で、まっすぐこちらを見つめる。その視線にこちらが何かを返す前に、彼はふっと視線を逸らした。
「……一ヶ月間、ありがとうございました」
ただ、彼の寮生活が始まり本来の生活に戻ったとしても、彼との関係がなくなったわけではない。今の私ができることは、彼の学生生活の様子をそっと見守ることだ。彼の日本にいる唯一の親戚としてできることだった。
彼の両親や家族は、こちらにはそう頻繁には来られない距離に暮らしている。時差もあるし、彼らの生活もある。来日できるのは、本当に限られた機会だけだ。だからこそ、文化祭のような学校行事には、家族の代わりとして私が足を運ぶことになった。彼の写真を撮って送ること――それもまた、預かる際にお願いされていたもうひとつの役割だった。
最初それをお願いされた時は「仕事が増えてしまった」と気持ちを抱いた。正直、さほど関係がなかった親戚から、事前に知ることができたとはいえ、突然親戚の子を預かって欲しいとか、気にかけて欲しいなど、面倒に感じていた。
だが次第に、彼が楽しそうに笑う姿をカメラのファインダー越しに見る時間が、いつの間にか楽しみになっていた。埋まらなかったはずの青春の欠片を、彼を通して拾い直している――そんな不思議な感覚を感じていたからかもしれない。
「文化祭でファイノンのクラスは、何をするんだっけ?」
信号が赤になってブレーキを踏み、止めたタイミングだった。窓の向こうには秋の気配を感じさせる綺麗な紅葉の街路樹が揺れ、ぼんやりとスピーカーからジャズのような音楽が車内に響く。
彼とは、あるきっかけから時々ドライブに出かけるようになっていた。この日も二人してドライブに出かけて彼を寮へ送り届ける途中であった。
彼は少し間を置いて助手席で姿勢を正し、いつものように少しの軽口を交えて答える。
「このあいだ教えたばっかりなのに、忘れちゃったの?」
「ごめんって。大掛かりな出し物だった気はするんだけど、ド忘れしちゃって」
「もー……しょうがないな」
時々窓の外を眺めながら、言葉を選ぶように話すその様子は、どこか誇らしげで、くすぐったいような嬉しさが混ざっていたのをよく覚えている。
「お化け屋敷だよ。まだ一年だから、できる出し物が限られてるんだ。本当は喫茶店も候補にあったんだけどね。でも、食事の提供は二年からしかダメで、担任に止められちゃってさ。結局、教室の中でできることに落ち着いたんだ」
ファイノンが暮らしていた海外でも似たようなものなのかは分からないが、文化祭は日頃の学習内容を発表する機会と共に、生徒たちが楽しむ行事の一つだ。
他の必須な面談以外は仕事の都合で予定がとれずにいたのだが、流石に参加すべきだろうと仕事の合間を縫うように予定を繰り上げて有給をとることにした。
文化祭はきっと、彼にとっても大きな思い出になるだろう。彼がどんなふうに準備して、どんな役を担い、舞台に立つのか。それを見届けてみたいと思ったのだ。
「へぇー、それは知らなかったな。ま、でも楽しみだね。お化け屋敷なんて子供の頃以来だ」
「ぜひ楽しみにしてて。結構本格的だから、驚くと思うよ。もしかしたら、本格的過ぎて怖いかもしれないし」
「ほーお、そこまで言うなら尚更行かないとね」