碧にほどける:2
――五年前のことだ。外国にいる親戚から、親を通じて「息子が日本に留学したい」という連絡があった。ちょうどその息子が通う予定の学校の近くに、偶然住んでいたこともあって、身内としてフォローしてほしいことと、最初の一ヶ月程度だけ預かってほしいと頼まれた。
実際に来日したのは、学校に入学するおよそ一ヶ月前だった。本来なら、寮に入る予定だったのだが、手続きの都合で部屋の準備が間に合わず、その間は私が住む家でお世話することになった。
そうして家にやってきたのが、太陽の光できらきらと輝く白い髪と、澄んだ青い瞳が印象的な青年――ファイノンだった。
「こんにちは。連絡した――の息子のファイノンです。ナナシさんのお宅であっていますか?」
モデルのようにすらりとした高身長に、長い脚。街角の広告にいてもおかしくないほど整った顔立ちは、身内だとわかっていなければ思わず距離を取ってしまいそうになる程である。
しかし、彼は驚くほど自然体で、無駄にそれを誇示することもない。外見から想像するような自信家ではなく、むしろ少し控えめで、言葉を選ぶときの間合いも慎重だった。若くして、ここまで整った見た目と、年齢にそぐわないほどの落ち着き、そして、日本語も流暢で完璧ときた。こんな青年が本当に存在するのかと、何度も目を疑った。
ただ、一つ確かなのは、彼の振る舞いは驚くほど丁寧で、恐ろしいほど謙虚だということだ。偏見だとわかっていても、外国人はもっとスキンシップが多いものだと思い込んでいたから、少し意外であった。
「ええと、ファイノンくん、だったよね。遠いところご苦労様です。荷物は他にある?」
「いえ。これと、このリュックだけです。筆記用具や指定の制服などは現地で用意した方がいいと思って」
「それは間違いないね」
彼の言う通り、これから通う学校は、制服や一部文房具の取り扱いが限られているため、現地で揃えるのが一般的だった。地元の生徒でもそうする者が多いと聞く。そのあたりまで考えて荷物を減らしてきたのだとしたら、なんと賢い少年だろう。まだ十五歳ほどだというのに。
そんな彼が、どうしてわざわざ日本を留学先に選んだのだろう。母国ではなく、見知らぬ土地を選んだ理由は――そう考えていると、ふと親戚からの連絡を思い出した。
──「どうしても、やりたいことがあるそうで」。
彼に説得された親戚らはそう言い、曖昧になっている目的については言及しなかった。彼の目的はわからず仕舞いだったが、何かの目的があってここに来たのは間違いないなかった。それを知るというのも、親戚からお願いされた別件――これは後日必ず撮らねばならないが――が関係しているのかもしれない。
ぼんやりと考えていたからか、目の前の彼に名前を呼ばれてハッとする。咄嗟に荷物から目線を外し、顔を上げ、慌てて口を開いた。
「とりあえず、そのキャリーバックはこっちに置いておいて。佑――友達が部屋に運んでおくので」
「ありがとうございます」
彼には事前に荷物運びを頼んであった。
限定フラペチーノに釣られて手伝ってくれる、数少ないありがたい存在だ。そして、その彼には溺愛する彼女がいて、彼女の方も古くからの友人である。目線で荷物を示すと、彼は何も言わずにこくりと頷いた。
ファイノンの方に振り返り、荷物の件を軽く説明する。そして、まだ暑さの残る昼下がり、キャリーバッグを片手に玄関へ立つ彼を、涼しいリビングへと誘った。
「立ちっぱなしじゃ悪いし、中へどうぞ」
「お邪魔します」
部屋の中は、玄関よりも一段冷えていた。冷房の効いた空気が足元から這いのぼり、腕や首筋に触れるたび、うっすらとかいた汗が一気に冷やされる。一歩ごとに、じんわりと身体の火照りが静まっていくのがわかった。
ふと隣のファイノンに目をやると、ひんやりとした空気に包まれて、ほんの少しだけ表情が和らいで見えた。
額の汗が、冷気で静かに引いていくようだった。だが、それはほんの一瞬で、すぐに表情を繕っていた。
まだ少し暑そうだな、と思い、冷凍庫からアイスを一本取り出して差し出す。
「これ、食べる? 溶ける前に」
「えっ、ありがとう、ございます……です」
一瞬、言葉を探すように眉をひそめ、それから彼はたどたどしく日本語を口にした。イントネーションの端々に、わずかに母国語の癖が残っている。それが自分でもわかっているのか、頬をうっすらと染めながら、差し出されたアイスをそっと受け取った。
「ナナシ、部屋にこれあったけど、どうしたらいい?」
「ああっ、それ無くしてたと思ってたやつ! あの部屋にあったのか……」
先日、ドライブに行こうとして場所に悩んでいたところ、雑誌を読もうとして見つからず、落ち込んでいた。まさかこんなタイミングで出てくるとは。
受け取ると、指先にわずかに埃の感触が残る。使い込まれたページをぱらりとめくりながら、懐かしさに目を細めた。
写真の色味も、紹介されている観光地も、数年前の空気をまとっている。角の折れたページに、自分と亡き父の書き込みがうっすらと残っているのを見つけた。恐らく父が母と一緒に行こうとした場所だろう。結局それは叶ったかどうかは不明だが、ページを見ただけで当時の父の気持ちがなんとなく伝わってくるようだった。
何度も読み返すうちに、思い出というものは、こんなふうに紙の中に静かに閉じ込められていくのだと気づかされる。見つかってよかったと、胸の奥に小さな安心が滲んだ。
――ふと思う。
もしかしたら、あの部屋にはほかにも色々と埋もれているのかもしれない。
アイスを食べようとしていたファイノンの方に、くるりと振り向いた。
「ごめん、ファイノンくん! ちょっと休憩してて!」
「え、あ、はい……!」
部屋の片づけを終え、無くしたと思っていた物がいくつか見つかったことに、心がほくほくと満たされていた。途中になっていたファイノンの荷物も運び終え、リビングへ戻ると、件の主は例の人を駄目にするソファーにすっかり沈み込んでいた。高身長の彼がふかふかのクッションに包まれて座る姿は、どうにもアンバランスで少し面白い。また、彼の片手には何か細長いものが握られていた。よく見ると、それはアイスの棒だった。
「ファイノンくん?」
「……当たりって書いてあるんですけど、これ……」
「え、ほんと? それもう一本もらえるやつだよ」
「ええっ、そうなんですか!」
その頼りない叫び声に、つい友人と顔を見合わせて吹き出してしまう。アイスの棒の一件もあって、彼の本質は、まだどこか子供なのだということを改めて思い知らされた。
最初に会ったときは、少し距離のある印象だったのに。今では年齢相応の素朴な反応がちらちらと顔を出している気がする。
そんな空気の中、隣の友人がにこりと笑って言った。
「ファイノン君、無理して敬語じゃなくていいよ。彼女の親戚なんだろ? もっと気楽でいいんだからさ」
「いや、それは私の台詞なんだけど」
「ほら、俺たちは何も気にしてないから。ね?」
「……はい」
小さく息を整えるようにしてから、改めて口を開いた。
「じゃあ……改めて。よろしく」
窓から差し込む午後の光が、その横顔をあたたかく照らしていた。