碧にほどける:1
ドライブが好きだ。車に乗り、流れていく景色を眺めるのが、たまらなく好きだ。
窓から眺められる風景は、次々と異なる表情を見せてくれる。ハンドルを握りながら、通り過ぎていく景色に視線を向ける。アスファルトをなぞる影、遠くに連なる山並み、陽ざしを受けて水面がきらめく河川。時々現れる標識や薄汚れたカーブミラー。そして、かつて繁盛していたであろう廃墟に絡みつく蔦を見かける度に、この道にも確かに時間が積み重なっていることを実感する。
行く先を決めないまま、ただ走る。そんな自由が、たまらなく心地よい。車内に満ちる空気すらいつもより澄んでいる気がする。時計の針の進み方が違うような、世界の速度が変わったような錯覚でさえ覚える。まるで、過去と現在のあわいを漂っているような、生きている道をそのまま体で感じられることが、何よりも好きだった。
「ん。海の匂いだ」
彼を「ひとっ走りに行くけど、どう?」と誘ったのは私だった。即座に「行く」と返され、待ち合わせ時間をチャットでやり取りしているうちに、彼の住む寮の近くの公園にたどり着く。
秋へと移る空気の中に、夏の残り火のような熱気がほのかに漂う季節では、未だにクーラーは手放せなかった。ほんのり涼しさを保つクーラーの効いた車内で、ハザードランプを点滅させながら待っていると、コンコンと窓を叩く音がする。そこには、先ほどまでメッセージを送っていた青年が、秋らしく軽やかな装いで立っていた。
青を基調としたコートに、黒のタートルネックとさりげないアクセサリーを合わせた姿は、清楚な印象を漂わせ、見慣れたその青年が大学生であることを改めて意識させる。
助手席のドアを開き、慣れた手つきでシートベルトを締めたのを確認してから車を発進させる。二メートル近い高身長の体は、何度見ても助手席を一番後ろに下げても窮屈そうに見える。それでも彼は文句ひとつ言わず、こうやって何度もドライブに付き合ってくれていた。
「今日はどこへ?」
「んー、国道沿いを走ってみようかな」
「となると、下の方になるね。……海に行くの?」
Bluetoothで流す音楽を聴きながら、車は道沿いを進んでいく。車内では積極的に言葉を交わすことはなく、静かで穏やかな時間が流れていた。音楽はささやかな音量で耳に心地よい。時折、窓の外に見える建物や景色をきっかけにどちらかが口を開き、短い世間話が交わされる。それでも、お互いに居心地の良さを感じていた。
しばらく道沿いを進んでいると、ようやく海が見えてきた。窓を開ければ、潮風が肌に触れる。遠くに見える水平線の青と、車内に漂うわずかなクーラーの冷気の両方が混ざり合い、なんとも言えない清涼感をもたらす。
ちらりと視線を横に向けると、ファイノンは肘を車窓近くの膝立に置き、流れていく景色をじっと目で追っていた。その姿には、かすかな翳りを覚える。
ぼんやりと視線の先を眺めていながら、その瞳には昔のような、眩しさを感じさせるものではなく、ただ空虚を見ているような気がした。
時折浮かべるその表情は、彼と出会ってからある日を境に見るようになった。ほんの一瞬だけ見せるその影は、こんなふうに目を伏せて、言葉の代わりに静かな笑みを浮かべていた。何を考えているのか掴めず、感情が抜け落ちたように見えた顔――その残り香のような影が、今も彼の横顔に滲んでいるような気がした。
だが、彼がこちらに気づいて目を向けた瞬間には、その影は跡形もなく消え去ってしまう。だからこそ、私はそれがひどく気にかかっていた。それを指摘することはない。ただ、心の奥底に小さな棘のように残り続けている。まるで、いつか彼がどこか遠くへ行ってしまうような、予兆のようでならなかった。
沈黙の中、私は再び運転に集中する。
ふと、道沿いの案内板に「道の駅」の文字が見えた。小さな道の駅で、駐車場も狭く、見逃してしまいそうな規模だったが、ナビを頼りに車を滑り込ませた。思いがけず見つけた、夏の名残のような場所だった。
駐車場の向こうには、小さな売店がぽつんと建っており、軒先には『かき氷』と大きく書かれたのぼりが、潮風にはためいている。貝殻細工の風鈴が吊るされていて、カラリと小さく鳴った。
ドアを開けて車を降り、大きく背伸びをする。前回の休憩から一時間ほど走った頃だった。背中の骨が鳴るのも、無理はない。
辿り着いた海辺の道の駅には、ちらほらと観光客の姿が見えた。しかし、時間帯のせいか、その数は思ったより少ない。小さな店の看板がチラリと目に入ったが、恐らくもう本日の営業は終わっているのだろう。
「潮風でべたつくなあ」
「確かにね。私は海を見に行くけど、来る? 待ってるならエンジンかけとくよ」
「僕も行く」
階段の最後の一段から砂浜に足を下ろす。さく、さくと、乾いた砂を踏むたびに小さな音が響いた。後ろを歩いてきたファイノンの声が聞こえる。
「……あっ、靴に砂が入った……」
ようやく海に来たのだと、実感が湧いてきた。目的地も決めずに来てしまったが、これも悪くない。
胸の奥で自分が思っていた以上に、浮き立っていることに気づく。足が前へと出るたびに、乾いた砂を蹴ると、さらさらとした感触が足からサンダルへと逃げていく。不思議と煩わしさはなく、むしろその感覚が心地よい。海に近づくにつれて、砂はしっとりと重くなってきた。波打ち際近くに足を伸ばせば、ひやりとした水しぶきが足首を掠める。
先程よりもより強く感じる潮の匂いと、寄せては返す白い波が、まるで子供のころに戻ったように心を揺さぶった。胸いっぱいに広がる景色に思わず笑みが零れる。気づいたら、濡れた砂浜を駆け出していた。
背後でファイノンが驚いたように声を上げた。だが、それすらも振り返らなかった。
履いていたサンダルを無意識に脱いで水際に立つ。足元をかすめる波は、せいぜい五センチにも満たない浅さだ。脛を濡らす冷たさに声が漏れた。ズボンの裾を少し持ち上げ、膝下まで波を受けながら、ゆっくりと歩みを進める。
海水は思ったよりも冷たい。足元では、波と一緒に砂がさらわれる感覚がある。そのふわりとした不安定さが、妙に心地よかった。
ふと振り返ると、波打ち際から離れた砂浜に降り立ったところで立ち止まるファイノンの姿が見えた。脱ぎすてた私のサンダルを拾ってくれたようだった。青い瞳は波の向こうを映すように静かで、追いかけてくる気配はない。風に揺れる白髪が、光を受けてきらきらときらめていた。
彼の姿に思わず目を細めていると、ファイノンが少し普段より大きめの声で声をかけてくる。靴を脱ぎっぱなしにしていること、帰りの運転への気がかりからか、少し焦ったような表情をしていた。
「ありがとー! 持っておいてー!」
「――はぁ、まったく。僕を荷物持ちにするつもりだね。なら……」
「君だけずるいよ。今年は僕だって海に来てなかったのに」
「あれ、そうだっけ?」
「うん。去年はモーディスたちと一緒に、海に旅行へ行ったよ。その時、君も誘っただろ?」
「あー……私断ったんだっけ」
「やっぱり。忘れてると思った」
後日、旅行中と思われる彼から、旅行の思い出の写真を連日送られ、つい顔が緩んだことを思い出す。海辺でのビーチボール、スイカ割り、海水浴をする彼や友人たちの姿は、まるで眩しい青春そのものだった。そのひとつひとつが、彼の高校生活の片鱗を切り取ったようで、自分が見てこなかった時間を覗き見るような気がした。
「今年はみんな忙しかったから、難しかったんだよね。だから、こうやって君と海に来れたことは……うん。改めて思うと嬉しいな」
「たまたまだけどね」
「それでもいいんだ。君と一緒にいろんな景色を見ることが好きだから」
「……相変わらず、サラッとこそばゆい台詞言うねー……」
時間は夕暮れに近くなっていた。足元をかすめる波が少しずつ高さをもつようになり、満潮が近づいているのが分かる。
「そろそろ車に戻ろう」と声をかけようとして、隣のファイノンへと顔を向けると、彼は未だ視線を水平線へと向けていて、ただ静かに景色を受け止めている。一瞬、胸の奥が少しだけ浮き立ったのを感じた。だが、同時に悪戯心が湧いた。
視線に気づいたファイノンが、こちらへと向いた時。足元の水を思い切り蹴り上げて、彼の方へと水しぶきを飛ばす。しかし、私の企みを読んでいたかのようにファイノンは軽く身を引いて、さらりと避けた。ちらりと横目でこちらを見て、わずかに唇の端を上げる。
「そう来ると思った。次は僕の番かな?」
「っ、やったなー!」
悔しくなってさらに水を蹴り返すと、彼は笑いを堪えたような顔で、またひらりと身を引いて避ける。その笑みに、ふと見覚えがある気がして、胸がじんわりと温かくなる。
海風に揺れる白髪が、夕陽を受けて赤く染まる。頬を撫でる潮風と、その碧眼を細める仕草はどこか無防備で、映画の一瞬を見ているかのようだった。
子供じみた戯れなのに、胸の奥がやけに熱くなる。潮の匂いと、笑い声が混ざり合い、夕暮れの風に乗って、どこまでも広がっていった。