碧にほどける:10

「……そろそろ戻ろっか」
「そうだね。お腹は空いてない?」
「ああ、売店があるんだっけ。ちょっとだけ見ていきたいな」
「いいよ」

 そうして、休憩施設や食事処へと足を進める。
 建物は山の稜線に寄り添うように建てられており、こぢんまりとしているが、清掃が行き届いていて古さを感じさせない。小さいながらも観光スポットらしく、地域の土産物や加工食品が並び、売店の奥では軽食も提供されていた。地元産のジャガイモを使った芋餅が名物らしく、ファイノンの目が真っ先にそちらへ向いた。

「芋餅……ひとつ、食べてみてもいい?」

 頷いて一緒に受付に並ぶ。素朴な茶色の焼き目がついた芋餅は、注文するとその場で温めて手渡された。ほんのりとした醤油の香ばしさが鼻腔をくすぐる。
 ファイノンは、手にした串をしげしげと眺め、それから慎重に一口かじった。

「うん、美味しい!」

 目を丸くして、ほんのわずか唇をほころばせる。その素直な反応に思わず笑みがこぼれる。

「それはよかった」

 ファイノンは頷きながら、ふた口、み口と芋餅を食べ進めた。頬を膨らませたまま口元を拭う姿は、どこか遠出を楽しむ少年のようで、妙に年齢の感覚が狂いそうになる。こうして食べ物に嬉しそうな反応を見せるところは、年齢相応だなと感じた。
 軽食を食べ終えたあと、互いにトイレを済ませてから駐車場へ戻る。日差しは高く、空気は少しだけ暖かさを取り戻していたが、風だけは変わらず冷たかった。ファイノンが小さくくしゃみをして、肩をすくめる。

「寒かったら、ブランケット貸そうか?」
「ううん、大丈夫」

 車に乗り込むと、エンジンの振動がふたたび足元から伝わってくる。ファイノンは手に残った芋餅の香りを名残惜しそうに嗅いでから、そっとシートベルトを締める。ナビの時刻を見ると、そろそろ昼時を過ぎていた。家路に向かうには、ちょうどいい頃合いだった。
 行きはほとんどが上りだったので、帰りはその逆だ。ギアを三速に入れてクラッチをつなぎ、緩やかに下りのカーブへと進む。下り坂は、上りよりも速度の出やすさに注意が必要だ。フットブレーキとエンジンブレーキを交互に使いながら、速度をコントロールしつつ、カーブでは必ず減速し曲がるのが基本だ。
 ただ、一部の車好きには速度ギリギリでコーナリングを攻めたり、ドリフトをしたりする人もいる。好みは人それぞれだが、私にはまだ早い趣向と感じて近寄ることはなかった。だが、そういう人ほど、よく遠出をしている姿を見かけるものだ。そしてそういう熟練者ほど、彼らの後ろについて走る安心感は素晴らしいものだった。
 U字カーブが目の前に迫る。丁度エンジンブレーキで減速は十分、あとはブレーキを踏み、下り坂の加速の流れを使ってハンドルを切るだけだ。ブレーキを踏んだ時、サスペンションがわずかに軋んで、身体ごと前のめりに引き寄せられる感覚があるが、それもまた気持ちいい。車と一体になるように、重力に沿って下っていくこの感覚は、まるで道に身を預けて流れていくようだった。
 窓の外では、来るときよりも景色が近く見えた。陽の角度が変わったことで、木々の葉の影がくっきりと道路に映っている。車が通り過ぎるたび、それらがひとつずつ踏みつけられて、流れていく。カーブのたびにハンドルを少し切り、ギアを落として回転数を合わせる。シフトノブを握った指に、車体のわずかな震えが伝わる。そのひとつひとつが、鼓動のようで、車と私、お互いが楽しんでいる気がした。

「なんだか、車も君も楽しそうだ」

 ふとした彼の言葉に胸が躍った。

「はは、これがわかるなら、ファイノンも車好きの才能があるね」
「何を言ってるんだい、僕はもうすっかりこの車もドライブも好きだよ」
「あはは。なら、きみが大人になった時が楽しみだね」

 彼の笑顔を横目に捉えながら、視線を前へ戻す。ハンドルの感触が妙に柔らかく、指先にかかる力が少しだけ緩む。気づけば、胸の奥にわずかな熱が宿っていた。エンジンの鼓動と呼応するように、一定の間隔で脈打っている。
 ――ありもしない約束をしてしまいそうだ。
 そんな感覚を覚えるのは久しぶりだった。誰かと景色を共有することに、これほどまで静かな充足感に満たされるとは思っていなかった。だが、その心地よさは、同時に危うさを孕んでいる。
共にドライブを楽しむ未来を想像する。今見ている景色を、いつか彼自身の運転で見る日のことを。自分の知らない彼の時間を思い浮かべる。隣に並び、缶コーヒーを飲みながら、次の目的地や道なりについて談話する。きっとそれはとても楽しいはずだろう。だが、彼の姿にノイズが走ったように誰かの面影が重なって、それが淡い夢のようなものであると現実の冷たさを告げてきた。
脆い期待に意識がわずかに逸れた。この静かな時間が、永遠に続くことなどない。そのことは、直感でもわかることだった。そう理解していながら、アクセルを踏み込む足に、ほんの少しだけ力がこもる。
 やがて峠を抜け、国道沿いのバイパスに合流した。エンジン音もさっきよりずっと穏やかで、タイヤの摩擦音が路面にすっと溶けていく。
 しばらく平坦な道を走っていたとき、ふと隣を見やると、ファイノンが小さく欠伸をしていた。
 さっきまで窓の外に夢中だった瞳が、とろんと重たげに揺れている。日差しが緩くなったぶん、車内の空気も心地いいのだろう。

「寝ててもいいよ」
「……っ、いや、大丈夫。起きてる」

 そう言いながらも、声はどこか曖昧だった。数分もしないうちに、まぶたがついに耐えきれなくなったのだろう。静かな寝息が車内に満ちはじめる。体格のせいでシートに収まりきらない長い脚を窮屈そうに折りたたみ、首を傾げて眠るその姿は、無防備な子供のようだった。運転中でなければ、毛布をそっとかけてやりたくなるほどだ。
 運転を続けながら、ふと気づく。助手席で人が眠る――それは、家族以来のことかもしれなかった。友人と出かけることはあっても、こうして隣で誰かが寝息を立てる静かな時間は、今までなかったように思う。
 今日のファイノンの表情や声を思い返すたび、胸の奥にじんわりとした温かさが広がっていく。親戚でもあるのだから、もう家族同然といえるのかもしれない。そう思うと、ほんの少しだけ、頬が緩んだ。
 街に近づき、赤信号で車を停めたとき、ファイノンがふいに目を覚ました。寝ぼけた声で、かすかに呟く。

「……ごめん、寝ちゃってた」
「いいよ。初めてのドライブだったし、疲れたでしょう」
「……うん。でも、すごく楽しかった」

 半分眠たげなままの顔で、柔らかく笑った。いつもより力の抜けた、素直な笑顔だった。

「また、行きたいな……」

 ぽつりと落とされたその言葉に、胸が一瞬だけ跳ねる。じんわりと、温かな感情が広がっていった。やがて再び、彼の寝息が規則正しく戻ってくると、むずむずとする口元をごまかすように、私はハンドルを少し強く握った。
 青に変わった信号を抜ける。助手席の窓から入る風は心地よく、夕陽に染まった道路がまっすぐ、遠くまで続いていた。

 その日をきっかけに、お互いの予定が合った週末にはファイノンを連れてドライブに出かけるようになった。
 私にとっては、仕事の息抜き。彼にとっても、少しでも気晴らしになればと思っていた。
 やがて彼が寮に入るようになると、毎週末というわけにはいかなくなったが、それでも時おり連絡をくれて、ドライブに付き合ってくれることもあった。
 そうしているうちに、彼の存在は親戚の子から、弟のような存在へと変わっていった。気がつけば、隣の席で同じ景色を眺めることが、当たり前になっていた。
 もちろん、目的地があって出かけるのだが、それでも彼がいたからこそ見えた風景があり、彼がいなければ通り過ぎてしまった景色もあった。その日、その時に彼が発した一言や、何気ない反応ひとつで、見慣れていた風景すらもまるで違うもののように思えることがあった。
一人きりで走っていた頃とは違う。ただ道を走り、一人と一台が眺めるだけだった風景は、彼と過ごす時間を通して、少しずつ別の意味あるものへと変わっていった。
 ハンドルを握る手にそっと力を込める。横に視線を流すと、陽射しにきらめく窓の向こうで、ファイノンもまた、同じ青を見つめていた。
 それだけで、胸の奥が不思議とあたたかく満たされていくのを感じていた。
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