What Comes Around.
涙がこれほど止まらなくなった日が、今までにあっただろうか。痛みや恐怖で泣くことはあっても、感動に胸を突き動かされたような気持ちで、ここまで心が満たされたのは久しぶりだった。近くのティッシュを何枚も引き抜き、涙や鼻水などを拭う。
目の前にあるスマートフォンの画面の「つづく」という文字を見つめるたび、はやく続きを読みたくて仕方がなかった。この熱を、二か月ものあいだ胸に秘めておかなければならないのが、もどかしい。
「…………風呂に入るか」
寝転んでいたベットの上で放心したのち、ようやく次の行動をするため体を動かす。余韻に浸るのはこの後でも良いのだ。何故なら、今日と明日はゲームのために有給を取ったのだから。着替えとタオルを手に持ち、風呂場へ向かう。シャワーを浴びながら、頭の中でこの後の考察タイムに向けたお題をまとめておく。
ようやく風呂を済ませて寝ようとした時だった。ベッドの上のスマートフォンからアプリの通知が来ていたことに気づく。
幼馴染からの連絡だった。幼馴染も同じゲームをやっているのだが、どうやら同じように号泣したとのことだった。
感想を述べて送ってくれるのは、大変ありがたい。気持ちの共有をできる友人がいるというのは、心の支えともなる。
しばらく幼馴染と連絡をやりとりしていると、気が付けば時刻は深夜になっていた。明日予定がある幼馴染とはそこでお開きとなり、就寝の挨拶を告げ、アプリを閉じる。
ちょうど区切りが良かったので、自分も寝ることにしよう。感想を言い合ったおかげで、心は白米の食べ頃のようにほかほかと満足している。今夜はよく眠れそうだった。
――暗闇の中、スマートフォンが突然点滅を繰り返す。しばらくするとその動きはぴたりと止まった。
・ ・-・-・ ・-・・ ・-・-・ ・・-・ ・・-
女――ナナシは、朝から不思議な音がして目が覚めた。
音にはそれほど敏感ではないはずだが、今日は耳が冴えていた。細かな装飾などの金属音が聞こえてくる。寝ぼけた頭で目をこすりながら寝返ると、なぜかナナシの目の先には、見覚えのない靴がある。
驚いて起き上がると、目の前にこちらを見下ろす一対の目。
薄緑色の髪が揺れ、黒いコートのような複雑な服装が異物感を大きく感じさせる。その容姿はとても見覚えがある。昨日、涙を流した原因の男だ。彼がなぜか目の前に立っている。
現実かと目を擦り、ほおをつねる。痛みはじんじんとかんじている。つまりこれは現実だ。ありえない。
「ふむ。見覚えのない場所です。オンパロスでも、樹庭でもない。……何かの現象空間でしょうか? 人間も居住可能な、安定した環境……そして、あなたは人のような反応をする」
「あ……あ、あ、え!?」
「なるほど、発声器官はある。ただ、言語がわかりませんね、意思疎通が可能かどうか」
「ど、ど、うあ」
「ご安心なさい。貴女を傷つけるつもりはありません。ですが、現状の理解が優先事項ですので、会話は後ほどに。……これは、オクヘイマの伝言の石板……いえ、似たような情報端末でしょうか」
「暗号化……いや、簡易的なパスコードが必要。触れるだけでは解析できませんね。……ふむ」
そのまま、彼は部屋をひと回り見渡す。洗濯物が干されたラック、雑多に積まれた書籍、食べかけの菓子の袋。見慣れぬ生活様式に、彼はわずかに首をかしげる。靴を履いたまま、まるで施設内の研究棟を歩くかのように廊下へと足を進める。
ナナシは、なおもベッドの上で放心状態だった。口をわずかに開けたまま、薄く見開かれた瞳だけが状況を追いかけようとしていた。
アナクサゴラスはリビングを通過し、ベランダのカーテンを引いた。差し込む強い日差しに、彼は一瞬目を細めた。
彼の目の先には、コンクリートの腰壁に囲まれたバルコニーが広がる。バルコニーから外の景色を見下ろせば、地上は遥か下だった。高さを一瞥し、手すりの上に手を置く。
「……飛び降りれば、身体の構造上即死か。選択肢としては不適切。ならば」
身を翻し、彼は今度は玄関へ向かった。依然として土足のままである。躊躇いもなく靴音を響かせながらドアの前に立ち、無造作にレバーを押し下げる。しかし、扉にはロックがかかっており、開かれなかった。
思考するアナクサゴラスは数分の間に、扉の構造を理解することに成功する。慣れた手つきでロックを外し、扉を開いた。
そこには、春の陽気が満ちた外の世界が広がっていた。見上げた空は晴天の青空で清々しい気持ちにさせる。幾重もの雲が、緩やかな風に流されていく。彼は、その空を見上げて一瞬だけ立ち止まった。
まるで、どこか遠い記憶を反芻するかのようだった。
「……オンパロスの空とは違う――けれど、何故でしょうね。感覚の底に、妙な共鳴があります。まるで故郷の空だ……」
アナクサゴラスは玄関を出て、共同住宅の廊下や景色を観察しながら、下へ続く階段を降りて行った。見慣れない景色に好奇心がくすぐられる最中、地上1階の共同住宅の入口を通り抜けると、彼はふと足を止める。目の前を一台の軽自動車が走り抜けていく。一瞬、彼は警戒して身構えるが、車は気にすることなく通り過ぎ去る。その車が通り過ぎ去った道路に視線を落とし、アスファルトでできた舗装道路に目が留まる。
彼の居たオンパロスでは、大地獣と呼ばれる大きな陸上生物が運搬の要だった。彼らは大きな足で土の上や、大理石で舗装された道を難なく歩き、安定した速度で物資を運ぶことができる。時には走るように駆けると、人以上の速さで駆けることができるのだ。
今、アナクサゴラスの目の前を通った車両について、彼はこう考えた――「この世界の舗装された道は、一体何で出来ていて、先ほど通った物体は、大地獣のよりも速い速度で駆けて行った。つまり、何かを運搬することを目的とした乗り物なのか……?」と。
彼の思考が次々と生まれては消えていき、好奇心が溢れてくる脳内に、アナクサゴラスは笑みが零れる。
しかし、道端で不自然に道路を見つめて、笑みを浮かべる彼の姿は、明らかに異質だった。犬の散歩をしていた老婦人や、通りすがりの学生――日常を生きるこの国の住人にとって、黒衣に身を包んだアナクサゴラスの姿は、コスプレかもしくは奇異な何者かにしか映らない。すれ違う人々は彼を二度見し、距離をとり、ひそひそとひそひそと何かを囁き合う。
だが、彼自身は、その視線の意味を「この世界の倫理的な構造差異」として、無視をしていた。それでも、視線の多さと時間に違和感を覚える。
「(視線の総数と、注視される時間が統計的に異常です。これは――観察者の興味、あるいは警戒によるものか。だが、そんなことよりも)」
しかし、彼にとって周囲の視線よりも優先されたのは、彼自身の好奇心だった。中断していた、オンパロスの大地獣との構造的比較についての分析を再び展開する。ふと、その彼のもとへ、一人の人物がゆっくりと近づいてくる。
青くきっちりとした制服に身を包み、腰には警棒を下げた男が、自転車を漕ぎながら向かってくる。
自転車の存在はアナクサゴラスに好奇心を植え付けたが、それよりも男の存在に冷静さを取り戻した。その男の姿に、彼はオンパロスの兵士と同じ気配を感じ取った。兵士よりは練度が感じられないが、周囲の人間の様子から察するに、この世界で治安を守る立場の者ではないか、と彼は判断した。
ただし、その存在の意味までは、まだ理解の外にある。
「……あなた、ちょっと待ってください。少しお話を伺っても?」
警官が呼びかける声に、アナクサゴラスは立ち止まった。これまで誰からも声をかけられうことはなかった彼にとって、これが初めての直接的な接触だった。たとえ不本意なものであっても、「会話」ができる者の出現は、彼にとって有意義な観測対象だった。
「……何を言っているかは性格には分かりませんが、話しかけてきたのはあなたですね? いいでしょう、話をするのは構いません。こちらも、知りたいことが多くありますので」
――一方、同時刻にナナシはようやく覚醒した。
何が現実で、何が幻だったのか。その判別も曖昧なまま、荒く息をつきながら部屋中を見渡す。
そこには、彼はいなくなっていた。
「いない……!? アナイクス!? ……どこ、どこ行ったの……!」
その名を口にした瞬間、自らの声に戦慄が走る。あの人物の名前や存在を、現実の中で呼ぶ日が来るとは、思いもしなかった。スリッパを履くのももどかしく、彼女は玄関のドアを開けて、外へ飛び出した。
そして角を曲がったその先――制服姿の警官に職務質問を受けているアナクサゴラスの姿が、視界に飛び込んできた。
「――ああああっ、その人、私の連れなんです!」
反射的に走り出し、声を張り上げた。警官が驚いたようにう振り向いた瞬間、彼女はアナクサゴラスの腕を掴み、懸命に説明を試みた。
「コ、コスプレです、コスプレイヤー! 一緒にイベント行く予定で……それで、ちょっと迷子に!」
「……イベント? ああ、もうすぐコミケがあるからか。でも、さっきから不審者だって何件か報告が入っててね」
「その件については、本当にすみません! 私からちゃんと指導しておきますから!」
「まあ、外人さんっぽいし、慣れてそうな君に任せるよ。ちゃんと指導しておいてね」
「はい! 任せてください!」
だが、隣に立つ男は、相変わらず冷静だった。
「助かりました。あのまま会話が進行していたら、この世界の治安維持機構について、いささか不本意な形で学ぶことになっていたでしょう」
「……あんた、ほんとに本物なの……?」
「……どうやら、あなたには共通言語で話せるようだ」
尋ねた彼女に、アナクサゴラスは一拍置いてから、頷いた。ナナシは現実で初めて見たアナクサゴラスの笑みに、思わず呼吸が止まりかけた。やはり現実であっても、彼の顔は驚く程整っている。そもそも、ナナシは美形の笑みに慣れていなかったのだ。
「本物、とは面白い表現です。いいでしょう、現状の情報を把握するためにも、糸口が少なく困っていたところでした。”私を知っている”貴女のご協力があれば、より迅速に情報収集と整理が可能となるでしょう。……もちろん、断る理由はありませんね?」
「……そ、そうですね!」
「ど、どうぞ。まずは、中にお入りください」
彼は周囲を一瞥し、頷いて玄関をくぐった。ナナシもそれに続いて部屋の中に入る。部屋に戻った二人は、キッチン横のダイニングテーブルを挟んで向かい合った。しかし会話はほとんど一方通行だった。アナクサゴラスが淡々と状況整理を行い、彼女はただ頷くばかり。
この世界の住人であるにもかかわらず、ナナシは始終気圧されていた。
細身で長身、重厚なコートを纏った異質な姿であっても、彼は決して周囲の視線に動じず、職務質問ですら冷静に受け止めていた。その姿勢が、相手を逆に押し留めさせる一因でもあった。威圧感を放つ彼の前で、出会ってから一貫して動揺し続けているナナシは、耐えきれるような心身ではなかった。
そして、アナクサゴラスの言葉に、ナナシは「そうですね」「その通りです」「私もそう思います」と、ほとんど三種類の反応しか返せずにいた。そんな彼女の様子を見て、アナクサゴラスは少しだけ呆れたような表情を浮かべる。
テーブルの上には、ナナシが新しく器に盛り付けた菓子のパッケージがいくつか置かれている。それに彼は目を向けながら、ふと口を開いた。
「……この世界には、“靴を脱ぐ”という習慣があるようですね」
「え? あ、はい。あります……」
「では、なぜそのことを私に指摘しなかったのですか?」
「えっ……?」
「貴女にはその権利がある。この空間の所有者は貴女でしょう。仮に、先程私が話した通り、オンパロスに帰還するための研究拠点をここに設立し――いえ、私が一時的に居候となったとしても、この空間の管理権限は貴女にあるはずです。……それすら伝えずに、ただ頷くだけですか?」
「……ええと」
「廊下も、部屋も、私の足で汚れてしまったでしょう。……拭くものを、お借りできますか?」
「あ、え……ちょ、ちょっと待っててください」
涙目に戻ってきたナナシに、アナクサゴラスは何も言わずに黙って見つめていた。その無言の視線が、余計に痛みより恥ずかしさを増幅させる。
「使い古したもので、良かったのですが」
「い、いえっ。これが一番早いですから。……こっちは水雑巾みたいなもので、こちらは乾拭き用です」
「……ありがとうございます」
一方ナナシは、背を向けて再び洗面所に向かい、今度は使い古した雑巾や掃除具を手にして、ダイニングルームへと向かった。
慣れた手つきで床を掃除し始めたナナシの姿を、アナクサゴラスは無言で横目に見やった。言葉はなくとも、その視線には観察者特有の静かな興味が宿っていた。