矛盾の銃声

※事後をほのめかしています。R15。



――きっと、これは罰だ。
 犠牲と幸福は両立しないと、身をもって知っていた。
 それでも、憧憬を抱いてしまった。小さな日々に希望を見出し、死よりも「隣にいる日常」を望んだのは、彼だけではなかった。
 今、その代償が、こうして訪れようとしている。待ちくたびれたように、手を誘っている。
 けれど、それをアルハイゼンは、半分引き受けようとしている。
 生暖かくて、柔らかくて、瑞々しい舌の感触も、筋肉質で決して美味しそうに思えないはずの体も、口内は酷く渇き、神経は疼くばかりだ。
 だが、同時に、彼の繊細な指先の愛撫と、体内へ彼を受け入れる行為への、喜びも同時に存在している。
 本来でなら、もっと理性を失っているはずなのに。今の彼女の中には、愛しさと飢えが混ざり合い、激しく交錯していた。

「君が、好きだ」

 名前を呼ばれて、再び深いキスを交わす。
 外傷が触れぬよう、器用に行為をこなす彼の優しさに、問いを重ねるのは野暮だった。
 そしてすべてを受け入れたあと――彼女は、本当の別れを告げなければならないと分かっていた。


 狭いベットの隣には小さなサイドテーブルがある。
 熱と残滓にぼんやりとしながら、横たわるナナシが部屋を見渡すと、澄ました顔のアルハイゼンが水瓶とコップを持って現れた。
 水は近くの綺麗な川から採取し、ろ過したものだ。
 ベットの端に腰かけたアルハイゼンは、水をコップに注ぎ、無意識にそれを差し出しかける。だが、ナナシは自力で起き上がることができなかった。
 それに気づいた彼はコップを一度仰ぐと、そのまま彼女へと口移しで水を与えた。

「……どうせなら、起き上がらせてほしいですね」
「……それもそうだな」

 水を飲み干したナナシは、アルハイゼンの両腕に支えられ、ベットの縁に腰掛けた。
 そして、彼の姿をじと、見上げるとため息をつく。

「ついでに服も着せてほしいな……なんて」
「却下する。どうせ汚れる」

 ナナシは「まぁ、そうか」と納得する。
 着ているのは、彼のTシャツと自身の下着だけだ。
 未だ止まらない片腕の出血のせいで、服を着るのもままならない。本来なら、とうに出血死しているはずだが――どうしてか、まだ命はかすかに残り続けている。
 その片腕を眺めながら考え込んでいた時、ふいに視線を感じた。見上げると、アルハイゼンの顔が至近距離に迫っていた。
 突然の軽いキスにナナシは肩を震わせる。彼の視線はまっすぐで、まるで迷いがなかった。
 その顔がわずかに傾き、ナナシの唇が自然と開き、互いの舌が触れようとした。

「っ……!」

 アルハイゼンが驚いて身を引く。咄嗟に離された口内には、極上のワインのような芳醇な味が広がっていた。
 唇を舌で舐める。
まだ、その味が残っている。
 空腹が極限に達していたのだろうか、腹がぐぅと鳴り、視界がさっきよりも明るく、はっきりと見える気がした。
 ワインでも飲んだのか、と尋ねようと顔を向けた時、彼の表情が凍っていたのが彼女の目に映る。
 そして、呆然とする彼の唇から、リップを塗ったかのような赤い滲みがあった。
 血だ、と。息を呑みこむ。その色ははっきりと目に映る。食欲をそそらせる味と色で、早く食べてしまいたいと――ナナシは感じていた。
 彼女はその時、理解した。彼を餌として見てしまい、絶望する。自分の変化をはっきりと自覚するしかなかった。
 ――もう、時間がないのだろう。

「……違う、待て。
待ってくれ」

 アルハイゼンは彼女の両肩を掴み、強く抱きしめる。
 同時に芳醇な香りと沸き立つ食欲がナナシを襲う。目の前にある彼の白い首筋に、無意識に口が吸い寄せられる。
 ハッとした彼女は、力のないはずの腕を使い、強い力で彼を押し返す。
 ベットへと倒れ込んだアルハイゼンは、距離を取り立ち上がった彼女の姿を見て驚く。仕舞っていた腰の銃へと手を伸ばしかける。
 それは冷静な判断力ゆえの当然の行動だった。しかし、彼は手を止める。まだ銃に触れることができなかった。
 目の前の彼女は、裸足のまま絨毯に立ち尽くす。その姿でも、なお理性を保っているように見えたからだ。
 それが、唯一の誤算だった。

「動かないでね、アルハイゼン。動けば、撃つよ」

 銃はすでに彼女の手にあった。アルハイゼンへと銃口が向いている。
 その眼差しにも、声にも、動揺はない。
 しかし、彼女の瞳は半分黒く染まっており、指先や足先にかけて急速に黒い皮膚へと変色していた。明らかに変異が進んでいる。
 未だ理性を保ってているのは、ただ、彼女の強靭な精神力によるものなのだろう。
 アルハイゼンは両手を挙げて抵抗の意思がないことを示す。
 それでも、ナナシは銃口を下げることなく、彼へ静かに命じた。

「アルハイゼン、扉の外へ行って」
「……ああ」

 彼は僅かに目を伏せた後、ゆっくりと顔を上げる。

「だが、一つ聞かせてくれ。君は……一人で、死ぬつもりか」
「当たり前。私は、生きた人間を喰らうつもりはないから」

 銃口のトリガーに指をかける。冷静を保つようにしているが、彼女の余裕はなかった。
 早く、と急かすナナシに、アルハイゼンはおとなしく従う。背を向けることはせず、目を逸らさずに後退り、扉の外へと出た。
 扉の外へとたどり着くと、ナナシの声が追ってくる。

「扉を閉めて。早く」

 アルハイゼンは両手を下ろし、一歩だけ前へ踏み出した。

「俺に、やらせてくれ」
「……嫌だよ。死に際なんて、見せたくない」
「君だけが背負う必要はない。最後くらい、一緒にいさせてくれ」
「黙って。……扉を閉めて。お願いだから」

 銃口は彼を定めていたが、アルハイゼンの言葉を聞いて、少しだけ震えていた。それは彼の言葉による動揺か、それとも体の反動か。
 沈黙が空間を支配したが、やがてアルハイゼンはそっと扉に手をかけた。
 ナナシは息を呑む。だが、彼の動きはどこか、演技めいて見えた。
 扉が半ば閉まりかけた瞬間、ナナシはそっと近づいた。

 そのとき、不意に――動かないはずの片腕が、ひとりでに蠢く。

「(……動いた?)」

 そゎりと皮膚の裏側で何かが蠢く。内側から膨れ上がるような熱と痛みが走り、細胞が、軋んでいるように感じる。
 細胞が変異へと活性化を始めた。片腕はもう元の形の姿を保てず、怪物のような黒く異形な腕へと変異が進み続ける。

「(い、や……いやだ)」

   ナナシは恐怖で喉を詰まらせた。
 扉の向こうでアルハイゼンが何かを察したよつに動く。
 彼女は咄嗟に扉へ、背とその腕を使い、開かれないように押さえた。

「おい、何があった?!」

   異常事態であると理解した彼が無理やり蹴破ろうとするも、その扉はびくとも開かない。
 変異しかけた腕の力が、扉の板を歪ませながらもそれを閉ざしているからだ。
 彼女の耳に、開けてくれと懇願するように、何度も何度も名を呼ぶ彼の声がする。
 その間にも、鈍い痛みが次第に鋭いものとなり、骨が捻じれるような感覚が彼女を襲う。

ナナシ。――君が一人で死ぬのを選ぶなら、俺は止めない。だが、最後だけは俺にもう一度会わせてくれないか」

 その声には、必死に抑えた感情がにじんでいた。扉越しでも、不思議と彼の表情が目に浮かぶようだった。
 ナナシは一瞬だけ目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
 落ち着いていく胸中に、ナナシはまだ残る理性と、無事な片腕で、銃のセーフティーを外す。
 トリガーに指をかけ、銃口を顎の下へとあてる。
 怪物になる前に終わらせよう、と彼女の中で決めたことだった。

「(あの小さな日々が、幻になっても)」

 ほんの一瞬、アルハイゼンの横顔が思い浮かぶ。

 死から救いだしてくれた時は、怖いほど冷徹な姿だった。駒として扱われながらも、少しずつ信頼関係を築いていく感覚は彼も理解している筈だ。
 彼の首にあった銀のネックレスを思い出す。初めて誕生日を祝った時、本当に拒むのなら、贈り物を捨てているはずだった。だが今も彼はそれをつけていてくれている。
 誕生日なのにお返しをくれた日は、驚いたものの、とても嬉しかったのを覚えている。今も宝物だからだ。  今日起こったこと、思い出したことが走馬灯のように駆け抜けていく。
 ここが正念場なのだろう。別れを告げる勇気はあるはずだった。
 だが、静寂の中で微かに揺れる蝋燭のように拙く、名を呼ぶ彼の声と姿が揺らぎを大きくさせていた。
 ここで止める気はない。怪物になってまで、最愛の人を襲う姿は何度も見てきた。
 今、それが自らにも陥ろうとしている。それだけは、絶対にしたくはなかった。
 誰かの隣に立つ未来が叶わないのなら、せめて彼には生きてほしい。

 それが、最も彼女が望むことだった。
 

「アルハイゼン……好きだったよ」
ナナシ……!」
「――生きてて、ね」

 返事はいらなかった。
 ただ、思い出だけを置いていくことだけは許してほしい。
 後悔も希望も全て、背中に背負っていく。
 逃げだって、矛盾だって、構わない。
 ――これは、私の愛だった。


   銃声が響いた。
 鈍い金属音と、何かが床に崩れ落ちる音がする。
 扉の向こうから、彼が駆け込む足音がうっすらと聞こえてきた。
 真っ暗に染まる視界の中、綺麗な銀髪が見えた気がした。
 あとがき
 移転前より掲載+修正と追加したものです。
 アルハイゼン夢を初めてSSにした記念のもので、シネタかつゾンビパロというニッチなものにしていました。
 今読むと彼の性格が若干優しすぎるかも。でもこれはこれで好きなので書けて楽しかった思い出です。
 image song/Compensation(Feryquitos)
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